
フェミニズムかもしれない何か
最近色々あって考えたんですけど、まあ、我々HSPって社会的にはフェミニンとされる能力を持ってますよね。
このご時世、どう考えてもマスキュリンな方が生きやすいし、適所適材みたいには言いますけど、適所が見つかりにくくもあるわけじゃないですか。
たとえばクリエイターなんて、よっぽど才能ないと難しいですよね。
しかも、適所が与えられればそれでいいかって言われたらそうでもなくて、「使ってやってるんだからそれでいいだろ/感謝しろよ」って感じでこられるのも普通に嫌なんですよね。
感謝はすれど別にいいかとはなんないだろ、みたいな。
なんかもう細かく言うならカントの定言命法(「人格は手段であってはならない。目的でなければならない」)に反するだろ、みたいな。
もちろん人格というものを直観的に理解できない、あるいは実在するものとして扱えないやつがいるのは知ってるんですよ。前者はシンプルに知性がなくて、後者はまあ、おまえらの哲学の欠点だよ、とだけ。
いいんですよ、別に。それが生物としての多様性だし、生物学的な均衡だし、 まあゆーたら我々が有性生殖してる理由でもありますからね。それで生まれてるある種の生産性みたいなものがあって、だからそれ自体を批判するつもりはないんですけど。
もちろん、たとえば「国を背負うやつが生き物として弱かったら問題だろ」っていうのはめちゃくちゃロマンだし、好きか嫌いかで言われれば普通に好きなんですけど(え?)、それがまあある種の男性優位社会に繋がっちゃってるよなみたいには思うんですよね。
まあ、それって桂小五郎(木戸孝允)が練兵館の塾頭だったり(1年で免許皆伝なのやばくないですか?)、井上馨が医者に匙を投げられながら50針縫われて生還したみたいなところから、まあ別にいまでも変わってないところですよね。
中央の官僚って、そもそも体力的にめちゃくちゃタフですからね。
まあ我々ホモ・サピエンスなんでね、それでもいいっちゃいいんですけどね。
まあ、細かくは書かないですけど、自称フェミニストさんたちのやばめの矛盾みたいなものもあるわけじゃないですか。
いわゆるマスキュリンな女性たちは、フェミニンな女性を自立させるという発想すらないわけじゃないですか?
で、もし彼女/彼らの主張が「依存していたかった(自立したくなかった)が、ジェンダーロールに合致しないために依存できなかった(させてもらえなかった)ので、自立せざるを(させてもらわざるを)えなくなった」っていうところから始まってるとしたら、それって別に男性優位の構造からは抜け出せてなくない?っていう。
まあわたしあんまりフェミニズムとか詳しくないので、割りと単なる印象で書いてるとこあるのであれですけど。
まあわりと、それってなんかフェミニズムっていうより、単に拒絶された痛みからの反発なのでは?とか思うんですよね。知りませんけど。
「あんたたちは可愛い(社会的ジェンダーに合致してる)んだから、男に養ってもらいなさいよ」ならまだいいほうで、下手したら「マスキュリンなわたしたちが、馬鹿で無知でか弱くて優しいフェミニンなあんたたちを守ってあげるわ!」みたいな、それって新しい構造(依存先)ってことですよね?っていう。
まあ、もし女の半数が「馬鹿で無知でか弱くて優しい」ことを前提とすると、まあその手のフェミニズムって女の半数からは白い目で見られてるわけですもんね。批判的でなくとも、まあ、not for meなわけですから。少なくとも支持はできんだろ、みたいな。
まあ、ともかくそんなマッチョな彼らも、最後はタヒぬわけですよね。
やっぱりどれだけある種の美学をもってても、自己保存の本能がある限り、タヒぬのって怖いんですよ。
で、老いれば老いるほどタヒぬのは怖くなる。どんどん惨めになるんですよ。
てなったとき、やっぱり必要とされるのって、まさにHSP的、まあ、悪くいえば宗教的な能力ですよね。
いかにもマッチョマンって感じの人が、まさに「タヒ」のような、究極的にフェミニンな課題に四苦八苦してるとき、まあ、もしかしたら我々の居場所はここなのかもしれないなって思うんですよ。
要は、中央に比して、「端っこ」ってところでしょうか。
べつにまあ、エッセンシャルワーカーみたいな感じで、大事だけど賞賛されにくいみたいな話だろうな〜とは思うんですけどね。
シルヴィア・プラスのベル・ジャーじゃないですけど。なんか我々はベル・ジャーのなかに住んでるのかもしれないよね。
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